はじめに...
 
私は、1958年にオハイオ州シンシナティにて、ギリシャ人の父とアメリカ人の母を持つ、双子座の一人っ子として生まれた。私がまだ小さい頃、両親は離婚し、その後、母親が再婚するまでの間、母子家庭だった為か、母親の若い男友達になるように、急いで大人になったような気がする。私はとても利発で、独立心が強く、また反抗的なところがある子供だった。
私が音楽に触れるようになったのは、9歳の時のアコーディオンがきっかけで、その教師が私の音楽的才能を見出し、その結果、その後、様々な音楽教育を受けることになった。私自身は非常にドラムを気に入ったが、義父が家の中でドラムを練習する音を聞くのを嫌がったし、母はピアノを望んだが、私は幼すぎて、ピアノは女々しいという印象しか持っていなかった。結局、妥協案として選ばれたのが、ギターだったが、ジミ・ヘンドリクスを聞いてから、その選択は間違っていなかったと思った。
その後、1968年に、オハイオ州ハミルトンにあった、ホフマン・ミュージック・スタジオのヘレン・ホフマンの元で、メルベイ・ギター教本を用いて初めてのギターレッスンを受けた。すぐに、教師は自分が教え得る全てを教えてしまったと私に言った。そして、私は翌年の1969年に、アメリカン・ギルド・オブ・ミュージック・コンテストに参加し、100人の参加者の中で準優勝した。
 
現実的な仕事を探さないと! でなければ、どうやって生活する?
 


私の両親は、私にとってギターは単なる趣味に過ぎないと思っていたようで、母は音楽で生活をしていく事は出来ないと思っていたし、音楽教師が私の優れた才能について義父にいくら説明しても、彼は信じようとしなかった。彼は私にエンジニアになってもらいたかったようだ。 高校卒業時に、音楽以外の勉強をするつもりは無かったので、義父は、その後の学費等のサポートをする事を拒んだ。けれども、母から経済的な援助を受ける事が出来た為に、1976年に、両親の意向に反して、パフォーマンス専攻で、バークリー音楽院で、奨学金を一部受けて入学した。実際に、高校の同級生のうち、音楽方面に進んだのは、自分以外に一人しかいなかったところを見ても、私のギターへの情熱はどうやら人並みではなかったようだ。

 
失われた時代、NYでのパーティータイム
 
バークリーでの3年間は、自分の専攻の勉強や、個人練習、友人とのジャム・セッションであっという間に過ぎて、学校の優等生リストには辛うじて名前が載っていた。けれども、それらは全て自分の勉強の為のもので、経済的には非常に厳しく、ピーナツバター・サンドイッチしか食べるものが無いまま数日間過ごす様な事も時々あった。 クリスマス休暇の時にはニューヨーク州ロスリンに住む父親と過ごし、一ヶ月程、レストランで働いた。休暇が終わると学校へ戻らなければならなかったが、働いていた時の夜の生活は、非常に楽しく、家族から離れ、初めて安定した収入を得ていたし、何より最高のパーティー・タウンであるビッグ・アップル(ニューヨーク)の中で自由でいることに興奮していた。この時点で、義父が以前に言っていたことが現実になった。彼は、私が一旦、収入を得るようになったら、学校へは戻れなくなるだろうと言っていたのだ。まさしくその通りで、私はニューヨークに残り、バークリー音楽院を中退した。その後、レストランのキッチンで働きながら、ニューヨークのロングアイランドのバーやビーチで大騒ぎをしていた。また、ギリシャに一度旅行して、コアフ島(ケルキラ島)の海岸で、気ままにギターを弾きながら、4,5ヶ月キャンプしたりした。 ニューヨークに戻ってから、短期間ではあったが、ロスリンにあるギター・ワークショップ・スクールで教師になった。その学校が閉鎖されてからは、生活の為にまたコックの仕事を始めた。
 
料理とジャズ
 
この時までにキッチンでの仕事で経験を積んで、私は、クリエイティブで、有能なシェフであるということが分かってきた。二人の優秀なシェフに仕込まれた後、有名なニューヨークの料理学校で奨学金を受けるように薦められた。食品を取り扱う仕事は好きだったので(未だに食べるのは大好きである)、シェフとしてキャリアを積んで行くのも一つの選択だったかもしれない。けれども、長時間キッチンで働いて、服に独特の匂いが染み込んでしまうのが好きではなかった。

私は1982年に結婚して、マサチューセッツ州のアムハーストに転居し、妻は学校に通い、私は、ニューイングランド地方で最も歴史があり、有名なカントリー・ホテルである、ロード・ジェフリー・インで、アシスタント・シェフになった。
時々、ギターも練習したし、アムハーストのベーシスト(彼も同じく日中、他の仕事をしていた)とコンビを組んだが、この時はまだ、私の音楽は収入を得られるものではなかった。私のシェフとしても評判はなかなかのものだったので、ロード・ジェフリー・インの支配人と話し合い、そのベーシストと私が、ホテルのラウンジで週に2日、キッチンの仕事の休日に、ジャズを演奏出来るように説得した。私自身、シェフとしてよりもギタリストとしての才能の方が特別なものであると説明すると(これは嘘であったけれども!)、彼は同意してくれて、結局私は、キッチンで週に5日働き、2日は、ラウンジでギターを弾いた。(つまり週に7日働いた)
その後、コック長に週にもう一日、ギターを弾かせてもらえるか尋ねたところ、答えはNOだった。彼は私にギタリストとしてよりも、コックとして、より長い時間、働いてもらいたかったのだ。その後、私はその仕事を辞めて、どこか演奏を出来るところがないかと探し始めた。
 
少年は青年になり、ジャズ・ギタリスト兼プロモーターとして故郷に戻る
 
マサチューセッツ州アムハーストにいる間に、ジャズ協会を結成して、地元の企業やマサチューセッツ州芸術協会からの援助を受けた。そして、ジャズ・コンサート・シリーズと、屋外でのジャズ・フェスティバルを企画した。(スライド・ハンプトン、ビル・ハードマン、エド・ジョーンズ他トップ・プレーヤー達と共演した)私は自分の大好きな芸術(音楽)を人々に広める使命があり、そのために必要な能力があったと思う。アムハーストにあるマサチューセッツ大学の、ファイン・アート・センターの部長であった、Dr.フレデリック・ティリスは、彼の部下全員で行なうようなジャズ・フェスティバルの運営を、私一人で成し遂げたとコメントしたことがある。


1984年に、私の妻が修士課程を修了したので、二人で私の生まれ故郷であるシンシナティに転居した。そのときにニューヨークに移る事も出来たが、シンシナティの方が、生活し易く、安全だと思ったのだ。(実際にはそうでなかったけれど) シンシナティで、私はミュージック・スクールでギター講師の職を得た。私の生徒は初心者か最新のヴァン・ヘイレン・リフに興味があるだけだったし、実際に彼らは真面目でなく、練習をしてこなかったので、その仕事に、満足出来なかった。私は、街中で座り込んで、無料でどこででも弾いた。ただ、演奏するためだけに。 やがて、ジャズ好きのドクターが経営する、ドックズプレースと呼ばれるクラブで、地元のバンドリーダー兼ブッキング代理人として定期的にライブを行った。(そのクラブで共演したミュージシャン:ハーブ・エリス、ジミー・ラニー、ラスティーブライアント、ジュニア・クック、ラニー・モーガン、ボビー・ワトソン、ジム・スニデロ、マイク・ウルフ、オセロ・モリノイ他)私は、他にもまだ名前を知られていない地元のグループ(中には長年演奏していないグループもあったが)に注目し、演奏する機会を与えた。(私はいわゆる“機会均等推進者”の一人だった)ミュージシャン/プロモーター/代理人として、この時代にとてもよい経験をしたと思う。 シンシナティでのそんな生活は、そのまま順調に続いていくように思われたが、実際は、そうではなかった。
 
ヤッピー時代、不動産業での成功
 
ニューヨークの多様性と興奮に惹かれて、私達夫婦は、1986年にシンシナティからニューヨークのブルックリンに移り住んだ。(ご存知ない方の為に一言。マーク・トゥエインはかつてシンシナティについて。世界が終わりに近づいた時に住みたい土地だと言ったことがある。つまり全てのことが10年程、遅れているからだ。)けれども、私はニューヨークのバーで演奏することに幻滅し始めて、毎日の生活の中で、次第に自分の物質主義の側面が現れてくるようになった。私の妻の方が、自分よりも高収入であることにうんざりしていて、私は自分の妻を養いたいと思い始めていた。


そして、ブルックリンで生活していた1987年から1992年の間(これは私にとって最も長い期間になるが)完全に演奏することをやめて、不動産を取扱うライセンスを取得する為の学校に通った。そして取得後、カプロン・ベロという大企業の工業用地の販売や賃貸契約を行なった。私自身はまだアーチストであるという意識があったが、この期間、全くギターに触れることがなかったし、実際に、音楽で得られるよりもずっと高額の収入を得られることが出来た。販売について学んで、初年度に社内でトップの成績を収めることが出来て、その経験は、後で再び音楽プロモーターの仕事をする時に大いに役立った。 様々な人種の人々と交わって、取引をするのも楽しかったし、地元のコミュニティー内の役員になった時には、活動も熱心に行なった。廃棄物処理場が近所に不法投棄をしていた事に対して、抗議運動を行い、よりよい環境を作り上げることに懸命になった。私自身、表面的には、環境問題に敏感なヤッピーだったけれど、大きな転換期となる事が、その後起ころうとしていた。
 
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