手根管症候群
 
その後、次第に演奏を通して、自分をクリエイティブに表現する事を懐かしく思えてきて、オフィスで仕事をしていない時に、たまにギターを弾いたりしていた。その後、より真剣に一度に数時間も練習したり、ソロ用のとてつもなく複雑な曲作りをするようになった。それらの曲はとても素晴らしかったが、その後、自分の手首に違和感を覚えるようになった。恐らく、運動する前に、充分な準備運動をしなかった為に起こりうる状態とよく似ているのではないかと思う。私は少しあせりすぎたのだ。それで、私の手首は、手首を動かす度に痛みを感じる、いわゆる手根管症候群と診断されて、その後、2、3ヶ月間、完全に演奏する事が出来なくなる事が二度あった。 そして1年半、手術を受けるのを拒み、いわゆる作業療法で病気と闘った。少し調子が良くなると、私は、ピックを使わずにギターを弾いた。私は自分の親指で演奏することが好きで、もし、もう一度、以前の様に演奏することが出来たら、そのスタイルで、自分の感情を表現していこうと決めた。ただ、活動を再開する為の自信や技術は言うまでもなく、親指だけを使って微妙な音の違いを生み出す為に何年もかかった。けれども、それはその後アジアで存分に発揮出来る様になった。
 
アジアでの生活、そして復活
 
1992年に、私の妻の故郷である香港に引っ越した。彼女の新しい仕事の為と、再び彼女が家族と同居する為であったが、私にとっては、真剣にもう一度、ミュージシャンとしてのキャリアを積む為のチャンスであった。その時までに、私の手根管症候群は太極拳や、適度にウォーミング・アップと、エクササイズを行うことで克服出来ていた。 私は一人で演奏し始め、個人的なパーティーで、トリオやカルテットの中の伴奏者として演奏をするようになった。また、素晴らしいフィリピン人の、ミュージシャンと可能な限りセッションした。クラシックギターの練習をしていたことがこの時に役に立った。また、ブロードウェー・ミュージカル(ウエスト・サイド・ストーリーなど)でも演奏をしたり、香港フィルハーモニー交響楽団とも演奏をした。私は、香港で再びバンドリーダー兼代理人になり、個人経営のクラブ、レストラン、企業で演奏と手配の両方を行った。そして、その後、初めてのCDである、“エブリシング アイ ラブ”をリリースして、年に一度の2週間のシリーズと、毎週日曜日の夜に香港のマンダリン・オリエンタル・ホテルで、未だに続けられている、週に一度のジャズ・ナイトで演奏をした。

シンガポール・スィング
 
1994年の8月に私達は再び妻の仕事の都合で、シンガポールから香港に引っ越した。小さなエンターテイメント関係の会社を設立し、95年4月まで、演奏者として、バンドリーダーとして、またエンターテイメントの主催者として忙しい毎日を送っていた。 初めての定期的なセッションは、有名なレッド・ホルトと共演した、パンパシフィックホテルでのもので、95年6月まで、3ヶ月続けた。その後、私の13,4年間連れ添った妻が突然、家を出て、その後しばらくして私達は別れた。この突然のショッキングな出来事に一年ほど苦しめられて、私はなんとか自分を取り戻そうと懸命になった。
私はどんな時も、精神的な物事、自己啓発、心理学、哲学、心と体の関係には興味があるが、その時に関心があったのは、自己の再生についてだった。私は山ほどの良い本を読み、その答えを見つけようとしていた。そして、飲酒と喫煙の量を減らし、運動をなるべく行い、食べ合わせを考えながら食事習慣を変えた。また、瞑想する時間を持ち、自分自身とうまく付き合えるようにした。そして自分の過去の出来事、両親との関係、子供時代、成長期の事等、それらが、自分の成人になってからの精神的な問題とどのように関係があるのか、探ろうとしていた。この時期は、自分の癒しや再生のために時間を費やした。 1995年の秋、ニューヨークに戻ろうかと真剣に考えたが、当時、ラッフルズ・ホテルで、安定した仕事を得られていて、毎晩、ジャズを演奏出来たために、そのままシンガポールに残ることにした。


ニューヨークからベーシストのヴィクター・ガスキンをメインにしたジャン・ドゥ・ショーン・トリオをシンガポールに呼んだ頃には、契約・宣伝の仕事もまた軌道に乗り始めていた。1995年の終わりから、ラッフルズ・ホテルで、常に決まったメンバーで演奏をし始めるようになった。そして、1996年の11月〜12月頃、私の2枚目のCDになる、”サドゥン インパクト”をリリースした。そのCDはシンガポールで製作され、私のオリジナル4曲とラテン・ジャズ5曲という構成になっている。
 
新しいインスピレーション、輝ける未来
 
1997年8月3日に、ユーラシア人、フィリピン人、マレーシア人、インド人、アフリカ系米国人、そして私(ギリシャ系アメリカ人)という構成で、美しい植物園の中でジャズ・コンサートを行なった。私の3枚目のCD“ライブ アット ラッフルズ”はその数日後に録音された。そのCDは半分がベーシストのビリー・マルチネス(別名:フランク・スマトラ)のボーカルをメインにしたトリオによるもので、もう半分は、トリバル・タイドという全員シンガポール出身のパーカッション・グループと自分のいつものグループとの共演(パーカッション4名、サックス1名、ベース1名、ギター1名)になっている。

この新しいバンド形式に、私は”World Beat”という名前を付けた。スタジオ録音だけでなく、これらの屋外のコンサートでの曲の多くは、ドキュメンタリーフィルムやミュージックビデオと一緒にビデオテープ化されている。そのミュージックビデオの部分は、その”World Beat”が、私のオリジナル曲、”Samba Sigh”を演奏している場面を収録したもので、ドキュメンタリーの部分は、私がアメリカ人としてアジアでどのような毎日を送っているか紹介していて、アジアで活動を行なうことのプラス面とマイナス面、なぜこの職業を選んだのかということ、そして収入を得ようとする努力や、様々な人種の人々と交じわうということ、そして一般的なアジアでの芸術に関するシーンが収録されている。


様々な民族的バックグラウンドのドラマーと共演することで、私はWorld Beatが演奏する曲、つまりアメリカのジャズに影響を受けた、アフリカ、キューバ、ブラジル、インドまた他のアジアの国の楽器や曲調を生かした新しい曲を作り上げた。1998年の中頃から年末までの私の目標は、6年間のシンガポールを始めとしたアジアでの経験と、自分自身の精神的な探求を表現した全てオリジナルで構成された4枚目のCDのリリースだった。


私自身、正直なところ、アーチストとして、(また人間としても)6年間アジアで、人生の中で最も貴重な経験をすることが出来たと思っている。パフォーマーとして屋外ステージで学び、自分の曲を録音することを始めた。そして、自分がどのような人間なのかということも随分良く分かってきた。
 
Integration (インテグレーション)
 
2000年に、初めて全てがオリジナル曲であるCD、“インテグレーション”、そして、翌年には、続編になる“インテグレーション2”,をリリースした。これらのアルバムは、シンガポールでの7年を含む、約10年間のアジアでの生活の後で得られたものを表現した、最高の出来栄えだと自負している。また、素晴らしい論評も頂いている。2000年に私は、理想的な妻であるサイトウ・タカコと2度目の結婚をした。7月29日に素晴らしいパーティーを、私が長年仕事をしてきた、ラッフルズ・ホテルのバーとビリヤード・ルームで行なった。私達のいわゆる精神的な結婚式は、アムリタナンダマヤ(天から至福の喜びを与える聖母)によって、ヒンズー教の寺院で、4月4日の早朝に行なわれていたが、シンガポールでの公式な結婚式は8月1日に行なわれた。そして、ハネムーンはニューカレドニアとオーストラリアに行って、コーラル・シーやリボン・リーフにて、スキューバー・ダイビングを楽しんだ。インテグレーション?に収録されている殆どの曲はこの旅行中に書き上げられた。

シンガポールに帰国後、私の10人編成のバンドが “アメリカン・アソシエーションズ・ジャズ・アット・ナイト”でメイン・バンドとして参加して、この上なく幸せで、自分の成功を実感できる時を過ごした。また、会社の経営者としては、有名なピーター・ニップ・ワールド・グルメ・フード・サミットを2年連続で運営して、成功を収めることが出来た。
 
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