サヨナラ シンガポール
 
けれども、2001年9月11日のテロ攻撃の影響で、シンガポールでの経済状況は悪化し、音楽産業も日増しに厳しくなってきた。(ところで、その9月11日には、妻と私は、フィリピンのプエルト・グアレラでスキューバー・ダイビングをしていた。その後、現在に至るまで、海に潜っていない)9月11日から数週間のうちに、いくつかの大きな契約を失い、殆どのパーティーもキャンセルされた。毎年恒例の海軍のパーティーを私は3年連続で運営していたが、その年はとても質素なものになった。

その後、数ヵ月後、あるファックスを受け取った。それは、ラッフルズ・ホテルの料飲部マネージャーのシェフキー・イェンセンからで、その内容は、私の契約は更新されない、つまり解雇だ、ということだった。ラッフルズ・ホテルに対する7年間の輝かしい貢献に対して、例えば電話で連絡するという心遣いも見せなかったのだ。けれども、それは、この世界では有りがちの事だ。
定期的な夜のセッションは次第に厳しい状況にはなっていたが、私はウェスティン・ホテルのサマーセッツ・バーでの演奏をその後数年続けた。アリス・デイや、ココ・ヨークといった素晴らしいシンガーと共演し、成功を収め、また、ピアニストのマイケル・スタントンとココ・ヨークと一緒に5人で演奏することもあった。 この時期に、クアラルンプールに行き、ハイネケン・ジャズ・フェスティバルと、小さなジャズ・クラブで数日演奏した。これらの演奏はその国々に対するお別れの挨拶になった。
スターとSARSと上海
 
その時までに、ラッフルズ・インターナショナルが、ウェスティン・ホテルとの契約が満了した後に、シンガポールにある2つのホテルを受け継いだ。そして、ウェスティン・ホテルの経営陣が上海に移り、五つ星ホテルをオープンしようとしていて、私にも声をかけてきたので、2002年、上海に移り住んだ。2003年6月に、SARS問題が起こるまでの間、彼らのホテルにあるニッチ・バーで、ベースのドナルド・ジャクソン、ピアノのジャック・ホーランド、ディーディーマクニールと演奏した。私達は、街で評判になり、地元の新聞でも「中国で最も優れたジャズバンド」と評された。それはある意味本当の事だったと思う。私の周りには最高のミュージシャンがいて、私達は次第にスターになっていった。けれども、SARSに対する恐れから、中国政府は外出を控える様に警告したために、そのバーで週末に一人も客が来ないこともあった。そのため、ホテルは、私達を解雇する他無かった。そして、私は妻と共に2003年の6月に日本へ向かった。
 
日本でのジャズ
 


日本に到着して数週間後に私の妻が、末期のガンだと宣告された。その後、1年と少しの間、妻は病気と闘ったが、2004年7月29日、ラッフルズ・ホテルでの結婚パーティーから、まさしく丁度4年後に彼女は他界し、翌月の1日、シンガポール政府による正式な結婚式から丁度4年後に伝統的な仏教形式で告別式が執り行われた。この時の模様を詳細に記したものをこのサイトに掲載しているので、一読して頂けたら有難いと思う。 English / Japanese

日本で、妻と共に病と闘ったこの期間、これまでの人生で最も激しく自分自身とも闘い、そして今、深い哀しみの底にいる。なんとかこの状況から抜け出ようと思っているし、このサイトで現状況を記すことがひとつの解決になればと思っている。



I have formed a new group called "Bossa Nouveau", a duo or trio of flute, classical guitar, and hand held percussion. It features, and is managed by two of the finest musicians I know, Andy Bevan on flute, and Mark DeRose on percussion. Our first formal gig will be at the French Chateau, "Joel Robuchon", the award winning French restaurant in Ebisu Garden Place. We will be entertaining the European financial group, "Premier", with authentic Bossa Nova!
 
私のその他の関心事
 
かつて、デイブ・リーブマンが音楽ビジネスに関して記しているのを読んだことがあるが、彼は、実際の演奏よりもずっと多くの時間をその手配のために費やしているとのことだ。彼は正しい。殆どの時間、電話をかけたり、契約を交わす準備をしたり、請求書などの帳票を発行するなどなど… 私は自分でエージェンシーを持ち、自分自身で録音を行っているため、更に大変だ。駆け出しのミュージシャンは大抵、自分を売り込むために、陰に隠れた仕事に精を出さなければならない。日中の仕事をすることで、更に夜の即興的な演奏を存分に楽しむことが出来るのだ。

それ以外の興味と言えば、私は基本的に屋外の自然の中で過ごすのが好きで、PADIレスキュー・スキューバーダイバーでもあるので、そのうちレベルアップもしたいと思っている。自分自身を解き放ち、大自然に溶け込むのに、ダイビングは一番いい方法だと思う。スイミングやサイクリングも好きだ。シンガポールにいる時には、公園やビーチでよくサイクリングをしたし、時には、自然保護地域まで行った。市街地から程近い所に、自然保護地域がある都市は世界で2ヶ所あるが、シンガポールはそのうちの一つなのだ。(もう一ヶ所はリオネデジャネイロである)未だに料理も好きだが、なかなか時間が取れない。食事と共に楽しむワインと素敵な会話が何よりも私は大好きだ。


ホフマン理論と呼ばれる心理研究セミナーの卒業生や、アルコール依存症患者を助けるグループにも加わっているが、元来、カウンセリングや、心理学など、人を癒す技術に興味があり、太極拳、メディテーション(瞑想)、ヨガも行なう。私は本から学ぶことが好きだし、書道や絵画など芸術的な事はなんでも大好きだ。けれども、官僚的な事や独善的な考え方は好まない。そして、列を作って並ぶ事や、人混みは好きではない。生き生きとした会話が大好きで、話す事に一生懸命になっている人の話を聞くのは本当に楽しいと思う。
 
名前について
 
私はしばしば、チャコ(Chako)という名字について聞かれるので、この場を借りて説明させて頂こうと思う。

私の祖父は、ギリシャのコルフ島(ケルキラ島)出身で、名字は、パラスケヴァス(Paraskevas) であった。けれどもトルコのイスタンブールに住んでいる時に、トルコ軍が彼を軍隊に組み入れようとした為、アメリカに移住した。その時に、自分の名前を名乗れなかったので、彼は従兄弟の名前、シャポパウロ(Chapopoulo)を借りて名乗った。ニューヨークに到着した時に、彼は入国審査官にシャポラウロと名乗った為に、私の父と私も同じ名前で生を受けた。その後、私の母が再婚した後、高校時代には、義父の名前を名乗ったので(ジェニングス)、正式な高校の成績はシャポパウロで残っているが、友人達にはジェニングスとして覚えられている。

同じように、私が最初に結婚した妻は、家族がインドネシアに住む中国人だったが、トルコとギリシャの関係の様に、インドネシアと中国は政治的な緊張関係にあった。そして、インドネシア政府が中国出身の国民に対して、インドネシア式の名字を名乗る様に強制した時に、元々の中国系の名字、コウ(Khouw)を、コマラ(Komala)に変えた。そのため、私が彼女と知り合った時、彼女の名字はコマラだった。でも彼女の場合はより複雑で、彼女は広東語が話されている香港で育ったが、父親はマンダリン(中国の標準語)しか話せず、また彼女は英語を話すことを奨励された。
その為、私達が結婚した時に、この複雑な背景を解決しようと、其々の名字の一音節ずつを組み合わせて、新しい名前を作った。つまり、シャポパウロからチャ(シャ)、コマラからコで、チャコ(Chako)となった!

私は元々の名字である、パラスケヴァスを名乗りたいと常に思っていて、特に、その妻と別れてからは、その気持ちが強くなってきている。けれども、そうしないのは、ミュージシャンとして、グレッグ・チャコとして名前が知られてきて、その名前でCDも発売しているからである。

私のライフ・ストーリーはいかがでしたか?
それでは、私の他のサイトもお楽しみ下さい!
 
page 1 / page 2 / page 3
 
 
ページトップへ